【コラム】嬉野の未来を構想する表現者たち vol.1
旅館大村屋 十五代目 北川 健太氏
<プロフィール>
嬉野で生まれ育つ。東京の大学在学中、赤坂の全日空ホテル( 現インターコンチネンタルホテル)でベルボーイのアルバイトを経験。卒業後 、日本全国で レジャーをテーマに 多岐にわたる事業開発・運営を行うトータルプロデュースカンパニーに就職。 熱海、箱根のラグジュアリーホテルの立ち上げ、加えてバトラーとしてのサービス業務に従事。2008年嬉野温泉 旅館大村屋 十五代目に就任。
やりたかったのは音楽の仕事 。
旅館を継ぐことは決まっていませんでした(笑)。
リーマンショックが起きた2008年、旅館もどんどん倒産し、オーナー交替が行われるさなか、多分にもれず、大村屋も経営の危機に立たされていました。事業の再生を叶えるべく、社長交替というかたちで同年、15代目に就任。当時、僕はまだ25歳でした。
「好きなことをしていいよ」という両親でしたので、好きな音楽の道を志し、東京の大学へ進み、社会学やマスコミ論などを学んでいました。いずれ音楽の雑誌社で働きたいな、と考えながら。そんな時、たまたまアルバイト募集をしていたのがホテルのベルボーイでした。
何の気なしに始めたつもりのアルバイトでしたが、僕はそこで目覚めましたね(笑)。
「自分の将来の仕事は音楽関係」と強く決めていたにもかかわらず、やはり大村屋のことを考えていたんでしょうかね。赤坂の全日空ホテルがアルバイト先だったんですが、都心の一流ホテルと大村屋を無意識に比較していました。そして「こういう旅館だったらやってみたい」と思いました。泊まるだけの施設ではなく、人が行き交い、集う旅館。食事だけもいいし、結婚式もできる、ワークショップや音楽イベントにも参加できる。多様な楽しみ方、無限の可能性を提供する、開かれたスタイルがとてもいい。
地方の旅館というと、宿泊客しか入れない、という印象がありますよね。同じ宿泊施設でありながら、その大きな違いやひらきに、僕は高い壁を感じました。ところがホテルの先輩からこう言われたんです。「北川君の実家は旅館でしょ。ハコがあるんだから、そのハコで自由にやればいいじゃん」って。大村屋というハコがあるのだから、そこで僕のやりたいこと、いいなと感じることを置き合わせていけばいい。例えば、好きなミュージシャンを呼んだ音楽イベントを開催したり、好みのレコードを置いて宿泊客が自由に聴くことができるライブラリーを作ってもいい。歴史ある旅館も、変化すべき時を迎えているのだと、感覚的に感じた頃でした。
大学を卒業して就職したのは、カトープレジャーグループ。ちょうど熱海、箱根にラグジュアリーホテルを立ち上げるというタイミングでした。新卒ながら、開業前の段階から業務に携わらせてもらい、開業後はバトラーという名前でサービスについて本当に多くのことを学ばせていただきました。音楽の雑誌社はあきらめました。もう新卒募集もしていなかったので(笑)。
イベントは思った以上の反響でした。
これはもう、手応えしかなかった。
大村屋社長として、集客のアイディアを思案するなかで、やはり「いち旅館としての限界があるな」と感じました。大村屋の運営立て直しは、もちろん重要課題なのですが、そこだけに照準をあてるのではなく、嬉野が、エリアとしての魅力を上げて、このエリアにたくさん人が来てくれないことには、小さなパイの取り合いで終わってしまう。そこで、商店街のなかでイベントを開催したり、異業種と協力し合ったりとか、色々と試みを続けていました。
その頃に出会ったのが小原さん(旅館 和多屋別荘)。嬉野の未来について話をするうちに意気投合し、これまでにないイベントを打ち上げようという流れになりました。もともと、『嬉野茶時(うれしのちゃどき)』という名前はなくて、夏の終わりの、一回きりのイベントのつもりで始めたのが『うれしの晩夏』というイベントだったんです。当時、観光課にいた小原さんの同級生から相談を受けて、最初は、吉田焼でパスタ皿を作って、地元のシェフにパスタを作ってもらって、パスタ会みたいなことをしようとしていたんですね。でもその時、小原さんが言われたんですよ。「もう少しとんがったものをやりましょう。どうせだったら他にない、嬉野オリジナルのイベントをやりましょう」と。
当時、DININGOUT(ダイニングアウト)とか、そういったプレミアムな食事会というものが始まっていました。そこで我々は、老舗〈温泉旅館〉という空間を使って、このイベントだけの為の器〈肥前吉田焼〉と料理、そしてお茶〈嬉野茶〉を主役として提供する『うれしの晩夏』というイベントを企画しました。嬉野ならではの特色にフォーカスした、これが『嬉野茶時』の前身となったわけです。
『嬉野茶寮』は喫茶のイベント。嬉野茶一杯と小さなお菓子で、800円の金額設定。ところが、思いがけず、茶農家からの反対にあいました。「800円では売れない、高すぎる」と。これまで茶農家が生産者として経験してきたイベントは、道の駅でどうぞと言ってお茶を無料で配ったりする、そういったものしかなかったんですよね。でも東京のホテルだと、コーヒー2000円とか3000円とか当たり前じゃないですか。そこには空間代、サービス代も当然含まれる。
嬉野茶は、大量にはとれない、質の良い、素晴らしいお茶です。安売りする必要はない。せっかくの品質の価値を下げるべきではないんです。ですから、この嬉野茶をより美味しく召し上がっていただける空間と時間を合わせて提供することで、その魅力を理解していただけると我々は思ったんです。
結果、イベントは我々が思った以上の反響でした。そうですね、控えめに言っても、これはもう、手応えしかなかった。そこでこの一連の流れを止めるべきではない、続けるべきだと決意しました。
一年中お茶を楽しめるシーズン(茶時:ちゃどき)にしちゃおう、ってことで
『嬉野茶時(うれしのちゃどき)』と名付けたんです。
イベントの成功で、大きな手応えを得ました。そこで今後の活動を視野に入れ、やっぱりイベントじゃない、チーム名、プロジェクト名を作ろう、ということになったんです。色々と考えたのですが、お茶農家の、なんですかね、業界用語じゃないですけど、よくおじいちゃんおばあちゃんが、3月、4月のお茶の時期になると、「今から茶時(ちゃどき)がはじまる」って言うらしいんですよ。お茶のシーズンですね。その「茶時(ちゃどき)」という言葉をいただきました。
年中、おいしいお茶が飲める、お茶を楽しめるシーズン。年中ずっと「茶時(ちゃどき)」にしちゃおうよ、という意味を込めて「嬉野茶時」という名前にしました。
このプロジェクトは、嬉野茶にとっても、旅館にとっても、焼き物にとっても、すごく意味のあるものですし、次の世代につないでいくために、嬉野を代表するこの三つの産業が一緒になって試行錯誤しながらやっていきましょう、と。異業種のメンバーが協力して4年以上続いているという感じですね。
メンバーには“オープンソース”。情報はすべて共有しています。
盗まれたって全然いいと思うんですよね(笑)。会費も取っていません。
ご存知ない方もいらっしゃると思いますが、『嬉野茶時』は、いわゆる組織ではないんです。メンバーも各々会社をやっていますし、やろうと思えば、もちろん法人にもできるんですが、むしろ、ガチガチの組織にしない、ということをすごく大事にしています。誰のものでもない、実体なんてなくていいと思うんです。枠をこえて、外へ出て行っても全然いい。ここでかかわったメンバーが、『嬉野茶時』で成長していって、自分なりの進み方、パターンを見つけて独立していく、みたいなかたちをとれたらいいなと思います。すでに数名いるんですよね、そういう方が。自由な関係性のなかで生まれる成果というのを、ここ数年で見てきたので、そこは確信しています。
余談になってしまいますが、『嬉野茶時』の活動はほとんど持ち出しでまかなっています。あとはイベントで得たお金だけで、会費や運営費はとっていません。別に余裕があるわけじゃないんです。今だからこそ、少し売上が上がっている茶農家もいますけどね。それでも嬉野の魅力が増えることは、このエリアに人が来てくださることにつながると思って、我々はやっているんですね。他のメンバーもそうですけど、皆さん本業がありながらの活動なので、その中心となる茶農家さんはもう大変なんです。一方で『嬉野茶時』を通じて、今まで出会えなかった飲食店に卸せたり、新しいステージに踏み出したりと、本業に直結する影響力もあると思っています。
そういったお互いを高め合う場で、我々が大事にしているのは、「すべてオープンソース」ということなんです。メンバーには、この茶器はどこからいくらで買ったとか、すべて情報を公開し共有しているので、それを各自が必要に応じて活かしてもらえれば、という気持ちです。そういったある意味内輪の情報を活用してもらって、全然いいと思うんですよね。
以前、『うれしの晩夏』で料理を提供してくださった日本食の名店、銀座「六雁 むつかり」の秋山シェフが、「和食の職人が少なく、発展しないのは、オープンソースじゃないから」という話をされたんです。洋食はレシピをすべてオープンにしていると。師匠筋から全部教えるそうです。日本の職人は、仕事は師匠の背中を見て覚えろ、10年は下積みで頑張れ、みたいな感じだからスタートが遅い、発展がむずかしいんだ、というようなことでしょうね。その話を聞いて、それって他の業種でもそうかもな、と思ったんです。この気付きは、僕には結構大きかったですね。事実、秋山シェフは、ご自分の和食のレシピを我々の旅館の料理長にも教えてくださいました。それができるのは、秋山シェフは、もうそのずっと上を行っているから。すべてオープン、すべて真似をしてもいいんだと思いました。
個人の小さな競争ではなく、業界自体のパイを広げるためには有益なことだと思いますし、それに結局、完全に一緒にはならないですよね。各々自分の個性も入ってくるじゃないですか。僕はそれでいいんじゃないかな、と思います。実際、『嬉野茶時』の活動をしたことで、以前では想定できなかった「今」があるんだと感じています。色々な側面において、すべてオープンソースというスタイルが、大きく良い影響を及ぼしていると思っています。
僕らの持っている資本は、未来へつながる「人」。
そこを高めていくしかないと思っています。
〈嬉野茶〉、〈吉田焼〉、〈温泉旅館〉という、嬉野を代表する3つの産業が一緒に活動できる『嬉野茶時』も5年目です。そこで昨年からは、これまでやっていたものを、今度は『嬉野茶時』ではなく、「嬉野ティーツーリズム(*1)」としてやっていこうという取り組みをはじめています。行政、観光協会も含めて。
『嬉野茶時』の研ぎすまされた体験コンテンツ、というスタイルだけになってしまうと、やはり来る人を選んでしまう。知る人ぞ知る、もので終わってしまう。実際、こういう特別感のあるイベントって地元の方には来てもらえないんですよね。都市部の方が来る。地元の方は、新聞とか雑誌で、こんなことやってるんだね、って知っていても、遠目で見ているだけ。これだと発展がないなって感じていました。我々のコンセプトは、「3つの産業を次世代につなげる」ことなので、そのためには、内輪で広げないといけない、と考えましたね。
そこで一昨年の『うれしの晩夏』は、外からのお客さまを一切入れずに、嬉野市内もしくは業界関係者のみに限定したんですよ。すると、それがすごく反響があって、行政も佐賀県庁からも、どんどん色んな話を持ちかけてくださるようになったり、我々を紹介してくれるようになったんです。茶農家にも新しい若いメンバーが入ってくれたりしています。
また、別プロジェクトとして、『ティーツーリズム』のコンシェルジュを募集しています。茶師が農繁期でティーツーリズムをできない時に茶空間でお茶を淹れたり、コンシェルジュ専用カウンターを作って街の紹介などをお願いする予定です。現在、予想以上の応募が来ています。その方たちに僕らの活動や嬉野の歴史の話をしたり、お茶の勉強会をしたりしたのち、合格した方には有償で、お仕事をお任せします。やはりここへ来て、広大な茶畑に建つ茶塔や天茶台の景色や空気感を味わって、感動しない人ってなかなかいないと思うんですよね。もっとたくさんの方に、そういった体験をしてもらいたい。僕ら生産者のこだわり過ぎていた部分や、繁忙期に制限される活動人員数の限界をクリアして、新たなアプローチで、嬉野のファンづくりを広げていきたいなと考えています。
僕たちの業界もそれぞれ厳しい競争のなかで運営しています。外資系や大規模なチェーン系のホテルや旅館が全国で増えているなかで、やはりそこの大資本には勝てないんですよ。「資本」という意味ではどうしてもかなわない。例えば「伊勢エビつきだから」とか「大きなお風呂があるから」とかというスペックが先だと。そう、僕たちの資本は「人」なんですよね。地域に根ざしている人とのつながりとか、ちゃんと独自の物語、ナラティブを持っているというか、そこを高めていくしかないと思っています。
僕らにしかない資本を、貨幣価値じゃない資本を作っていくというときに、『嬉野茶時』みたいな地域資源や僕らの人間力とかそういったことを武器にしたい。僕らが表現し、発信することで「嬉野に行ってみたい」と感じて欲しいんです。「大村屋、和多屋に行ってみよう。肥前吉田焼に触れ、そこで茶農家さんの入れるおいしい嬉野茶を飲んでみたいな」とかね。おかげさまで色々な方の協力を得て、少しずつ名前が広がっていて、それがすごく嬉しいですし、知ってもらうことが大事だなと思います。
*1 嬉野ティーツーリズム
「一杯のお茶を求めて旅をする」というまったく新しい旅のスタイル。お茶にまつわる多彩な体験メニューが揃う。お茶の味わいの神髄に神髄触れつつ、茶師(茶農家)の想いも感じられる。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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